2013年11月28日木曜日

【プレイバック・中大ラグビー】 2007年シーズン 小山田組編 後編

最終節は日大の勢いに気圧されてしまい、非常に厳しい敗戦となってしまった。
まだまだチャレンジャーなのに、あたかもチャンピオンかのように振舞ってしまった。
そう考えると、必然の敗北だったのでは…。
自分自身の応援も力不足だっただけに、悔いは残る。

さて、その前日、同じ場所で行われた早慶戦は早稲田大学の勝利に終わった。
対抗戦の2位を確定させ、選手権では中大と同じグループに入る。
2007年の大学選手権以来の再戦。
当時の早大は脂の乗り切った権丈組であり、中大は前回ご紹介した小山田組である。



早大との感動的な敗戦


選手権が行われる2週間前、僕は国立競技場にいた。
伝統の早明戦。
この年は明治も全勝をキープしており、競った展開になると予想されていた。

しかし、ゲームは一方的なものになる。
1年生の天才SO、山中亮平(現神戸製鋼)の華麗なパスワークに明大DFは翻弄。
71-7という結果は、僕の顔を青ざめさせるには十分だった。


迎えた試合当日。
アップの様子を見ていて確信した。
「自信」がある。
リーグ戦の時よりも、「何かをしてやろう」という空気がそこにはあった。

ゲームはもちろん、終始早大のペース。
4本のトライを決められてしまったが、そのプロセスに「簡単にやられた」というものは無く、何箇所も傷をつけようと足掻いていた。
ディフェンスが頑張っているだけに、何とか1本トライを!
中大の争点は、次第にそこへ集約されていった。

この試合、中大側のハイライトは後半の2つのプレーに集約される。
後半半ばごろだっただろうか、中大のディフェンス網が切り裂かれ、田邊秀樹(現神戸製鋼)をフリーにさせてしまう。
このまま勢いに乗らせて走らせたら危ない!と思った次の瞬間、田邊が抱えていたボールがタッチ外へと吹き飛んでいったのである。
何事か?と思ったら、その正体は大塚大輔(現コカ・コーラ)だった。
捨て身にも程がある、決死のタックル。
ここから中大の戦いはより引き締まったと感じる。

そして、0-38で迎えた後半28分、遂に歓喜の瞬間が訪れる。
中田がディフェンスの裏にキックを蹴ると、すかさず早大HO有田(現コカ・コーラ)がカバーに入る。
そのスキを逃さなかったのが、長友だった。
追いかけっこの末、競り勝った長友がインゴールへ入ったボールに手を当てる。
記録の上でも、早大に傷跡を残せた瞬間だった。

結局、試合は7-50で敗れた。
早大にとっては1つの通過点であり、その後彼らは何事も無く大学選手権優勝を成し遂げた。
その裏で、この試合がゴールだと感じ取っていたチームは、清々しく敗れ去ったのであった。
自分自身にとっても、この試合を終えた後の気持ちの高ぶりは忘れ難いものがある。


不器用だけど、愛されていた




主将本人のプレーとは裏腹に、小山田組は何とも不器用なチームであった。
「惜敗の中大」という悪しき異名を裏付けるように、7点差以内負けが2試合、引き分け1試合、勝ちが1試合…
どれかの試合が別の方向に転がっていたら?というたらればを考えると、少しぞっとする。

モールとタックル以外は取り柄が無く、勝負弱い。
でも、どこか憎めないところがあったし、ずっと追いかけていたくなるようなチームだった。
カッコよく言えば、ラグビーに対する真摯な取り組みが、ピッチの外へも伝わったという事ではないだろうか。

小山田組の歴史的意義を挙げれば、多少のラッキーはあったが「大学選手権に出場できた」ことに尽きるだろう。
数年間閉ざされた扉を開いた事により、ラグビー部を取り巻く空気は大きく変わった。
ファンの立場から言えば、「あの試合みたいなのをもう一度!」というのは大きなモチベーションになっているのだ。

本来であれば、小山田組以降も毎年大学選手権に出れれば良かったのだが…それはまた数年お預けとなる。
この扉を再び開けたのは、07年当時1年生の選手たちだった…

(つづく)

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